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あぁ、ホトトギス同盟の……


── いや、「清州同盟」です……

武士

さて、戦国時代の三英傑といわれた「織田信長」「徳川家康」。

忘れてはいけないもう一人は「豊臣秀吉」ですね。


イメージ的には、まさに「ホトトギス」を使って端的に表わされるように、

  • 泣かぬなら殺してしまえホトトギス(信長)
  • 泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(家康)

そして今回特別友情出演の「秀吉」のキャッチコピー、

  • 泣かぬなら鳴かせてみせようホトトギス

大雑把にいえば、それぞれ本当にこんな感じの生涯。

ですが、細かくいうと、この二人(秀吉を入れたら三人)は、切っても切れない複雑な絡み方をしながら、時代を過ごしてきたのです。



「織田信長」と「徳川家康」の関係や仲はどうだったのか? 等含めまして彼らの違いについて解説いたします。


かつて本当にあった戦国時代。

二人の英雄のあれこれに、少しでもスッキリしていただければ幸いです。

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「織田信長」「徳川家康」、時代の流れと二人の違い


さて、彼らの生きた戦国の時代。

何がきっかけで、このように戦(いくさ)の頻発する時代になってしまったのか?


簡単にいいますと、その流れは以下の通り。


室町幕府6代将軍の「足利義教(あしかがよしのり)」が有力大名「赤松満祐(あかまつみつすけ)」に暗殺されたこともあり、その子どもである8代将軍「足利義政(よしまさ)」の時代には、幕府の権威というのは、相当に軽んじられたものでした。

そこで、当時跡継ぎとなる子どももいなかった「足利義政」は、弟の「足利義視(あしかがよしみ)」に将軍職を譲ることにするのです。


ところが、このタイミングで男の子が生まれてしまうのですね。

生まれてきた子どもにはまったく罪はありません……ただ間は悪すぎです。


弟にしてみれば、今さらな感じ。

約束通り将軍職を譲ってほしい。


一方、男の子を生んだ奥さん(富子)からすれば、跡継ぎが生まれたのだから、その話はなかったことになるのが当然だ、となるわけです。


困りましたね……


そうなってくると俄然張り切り、割り込んでこようとするのが大名たち。

「細川勝元」「山名宗全」がそれぞれ弟サイド、奥さんサイドにつき、自分たちの権力争いに利用しようと戦を始めます。


これが「応仁の乱」の始まり。

京都を舞台に11年にも及ぶのですね。


また、軽んじているとはいえ、戦をしているのは「幕府」。

大名たちは、隙さえあれば何とかしてのし上がりたいのです。

幕府がケンカをしているのだから、自分たちだってしてはいけないはずはない、とばかりに、戦火は全国に広がっていきます。


── 戦国時代突入。


結局幕府内の将軍争いは、弟の義視ではなく息子の「足利義尚(よしひさ)」に継がせることで落着します。

そこで幕府は全国の大名たちにも「戦をやめよ!」と命じるわけですが、11年もの間、戦に明け暮れ、政治など行っている場合ではなかった幕府の言うことなど、もはや誰も聞かないのです。


きっかけが収まったところで、そこから飛び火した戦はますます激しくなり、その後100年以上続きます。


これを終わらせたのが「織田信長」。


ここからは、サラッと書きますが、その信長の家臣が「豊臣秀吉」。

信長が「本能寺の変」で、明智光秀に倒れ、その仇を討ったのも秀吉です。

その功績により、秀吉は織田家の力を引き継ぐ形となります。


が、もともといた織田家の家臣たちにとって、それは面白くない。

ここでも争いは起こります。

ですが、ことごとく秀吉により滅ぼされ……


── 秀吉、全国統一。


そして秀吉、病死。

残された息子は5歳(秀頼)です。


そこで、秀吉が息子の後見人としたのが「徳川家康」。

秀吉は全国統一後に「自分の死後、有力大名5名の合議により息子(秀頼)を補佐させる」ため「五代老」という制度を作っており、家康はその筆頭として大きな権力を握っていたのです。


さてさて、ここからが家康の天下統一、一気呵成の道のり。


まず家康は秀吉亡き後、自分の娘たちを次々と有力大名の元へ嫁がせていきます。

これは禁じられていたこと。

ですが、お構いなしに家康は進めていきます。

なぜなら、秀吉の時もそうであったように、もともとの「豊臣」の重臣たちにとって、自分は煙たい存在。いずれ戦は避けられない、と思っていたからです。

そのための布石ですね。

娘を嫁がせ、親戚関係を作り、いざという時の味方にしようと早いうちから計画していたのです。


なんともまぁ、狡猾といいますか……


そしてついに1600年。

関ヶ原の戦です。

家康、敵対勢力を一掃。


── 天下統一。


その後、征夷大将軍となり、江戸幕府を開くのです。


これが、この時代の大まかな流れ。

「織田信長」「徳川家康」、ともに天下統一を目指し、最終的にその野望を果たしたのは「家康」です。


ですが、二人ともが天下を統一したかったのは「戦のない世の中を作りたかったから」なのです。

そして、そのために信長は、弊害となる古い体制を破壊し、家康は狡猾なまでに時世を読み、忍耐強くチャンスを待ち最後にはそれを手にしたのですね。


── と、ここまでですと大まかすぎて「信長」と「家康」の関係がイマイチわかりません。

「秀吉」を真ん中に別々に存在していたかのようにも見えますが、歴史は深いというか複雑というか、絡まっているのです。

では続いて「信長」の生きた戦国時代を、そして次に「家康」の生涯を「信長」との関係を交えつつ見ていきましょう。

「信長」の生涯


信長は非常に気性の激しい人だったとも、実は合理的でかなり慎重な性格だったともいわれています。

「身分を分け隔てずに庶民ともよく関わった」

「とある山中に住みついていた今でいうところのホームレスの男性に、小屋を建ててやってくれ、飢えさせないようにしてくれ、と村人たちに金銭に代わる木綿を渡した」

といった人情味あふれる面もある一方、有名な、

「比叡山延暦寺の焼き討ち」

など、とんでもなく残酷な行為にも及んでいます。


相手は寺院です。仏様……


最近になって「信長の真実」的な話もよく耳にします。

ですが、そうなってしまいますとキリがないので、時系列に沿った信長の生涯と、その中の登場人物との関係などから「織田信長」像に触れていきます。

♦織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、戦国三大武将の真実!


誕生は「尾張国(おわりのくに)」。

愛知県の西部に相当する場所で、戦国大名(小大名)である「織田信秀」の長男として生まれました。


13歳で元服。「織田三郎信長」と名乗るようになります。

16歳で「濃姫(帰蝶)」と結婚(「上総介(かずさのすけ)」を名乗るように)。

彼女は「美濃国(岐阜県南部)」の戦国大名「斉藤通三」の娘。

政略結婚ですね。この時代には多いです。


そして信長18歳の時に父「信秀」死亡。

信長は織田家を継ぐことになります。


ここで登場するのが「織田信行(信勝とされる場合も)」と「柴田勝家」。

    織田信行: 信長の弟の一人
     → 1557年、信長の命により殺害される
    柴田勝家: 信長の父「織田信秀」の家臣
     → 後に信長の筆頭家老に

「柴田勝家」は、織田家の跡取りに「信長」ではなく「信行」を、と兵を起こすも敗北。

このお家騒動は信長・信行らの母である「土田御前」のとりなしで、いったん和解となるのですが、翌年信行は「織田家伊勢守家」と密かに繋がりを持ち、またも信長に反旗を翻します。

が、今度は柴田勝家により、このことが信長に伝えられ失敗。

その後も、何度か信行は謀反を企てようとするも、これも勝家の通報により阻止。


そして上記の通り1557年には信長の命を受けた「河尻秀隆」により謀殺されます。


彼は、とてもきっちりとした性格で、兄である信長とは大違いだったといわれています。

「大うつけ」と呼ばれる兄に織田家を任せておくのが心配だったのか……

わずか22歳の若さで亡くなっています。


さて、その3年後1560年、有名な「桶狭間の戦」です。

2万5千ともいわれる大軍を率いた「今川義元(いまがわよしもと)」をわずか10分の1の兵力で迎え撃ち、破ったとされる、信長の名を世に知らしめた戦い。日本三大奇襲の一つでもあります。

    今川義元:「駿河国(するがのくに / 静岡県中部・北東部)」「遠江国(とおとうみのくに / 静岡県西部)」の守護
     → 1549年に織田家(当時の主は「信秀」)に奪われていた「竹千代(後の徳川家康)」を人質交換の上、取り戻す
     → これにより松平家を従属させ、「三河国」も傘下に入れる
     → 東海一の弓取り(弓術の優れた人。または武士)といわれた人物

    松平弘忠: 家康の父。「三河国岡崎城(みかわのくに / 愛知県東部)」城主
     → 今川義元を何かと頼りにしている
     →「竹千代」はもともと今川義元のもとに人質として送られるはずだったが、裏切りに合い奪われ織田家へ送られていた
     →「織田信秀(信長の父)」とは今川義元の支援を受けつつ、何度か戦の経験あり

ここで注目すべきは「竹千代」の存在です。


「人質」とは、要するに保険のようなもの。

「裏切りませんよ」を示すために差し出すのですね。差し出した側は、ですので逆らえなくなるのです。

(※ ちなみに「竹千代」との「人質交換」の相手は信長の異母兄「織田三郎五郎信広」)。


こうして家康は桶狭間で今川義元が討たれるまで、今川家で人質(といっても、実際は家臣のような存在)として過ごします。

しかも、その前には「織田家」。

信長との面識も当然あったわけです。


そして桶狭間の戦で今川家の先鋒を務めたのは「松平元家」。

これは「家康」を名乗る前の「家康」の名前(ややこしいですが)。


二人はここで再会を果たすのですね。


その後の曲折については後ほど述べますが「桶狭間の戦」の2年後の1562年、信長と家康は同盟を結びます。

「清州同盟」です。「ホトトギス同盟」ではありません。


さてさて、勢いはあったものの、他にも大きな大名勢力が巨万(ごまん)といた時代。

何の後ろ盾も持たない信長が目をつけたのが「足利義昭(あしかがよしあき)」です。

    足利義昭: 室町幕府12代将軍「足利義晴」の次男 → 後に15代将軍に
     → 次男であったため足利将軍家の跡継ぎからは外れる。慣例により仏門に入る(興福寺一乗院にて「覚慶」を名乗る)。
     → 兄であり13代将軍となった「足利義輝」と母が暗殺される(弟も殺害)
     →「覚慶(義昭)」も興福寺に幽閉
     → 1565年、足利義輝の側近たちにより救出される
     → 将軍就任も夢ではない……?

信長はこのような状況にいた足利義昭の上洛(都にのぼること)を助けるのです。

そして信長の尽力もあり、義昭は見事15代将軍の座、獲得。


義昭に褒美として与えられた「副将軍」の官位を断り、代わりに信長が求めたのは「堺・大津・草津」を直轄地にすること。


これはもの凄く合理的な選択なのです。

名誉は一銭にもなりませんが、上記三国は経済的に重要ポイントとなったのです。

畿内における物流の拠点ともいえる場所、特に堺は代表的な自治都市。

これらの地域を管轄することは資金繰りの面でも大きな利益を得ることになるのですね。


こうして信長は着実に勢力を増していきます。


信長の力添えもあって将軍になることのできた義昭は、当初は「我が父」とまでいうほどに(信長を)慕い、称えていたのですが、1570年あたりから二人の関係には徐々にヒビが入り始めます。


もともと信長は義昭に対し、決して高圧的な態度を取っていたわけではなく、むしろ舐められてしまうほどに低姿勢だったといいます。
そして義昭は経緯はどうあれ、時の将軍。

段々、好き勝手に行動し始めるのです。

例えば、諸大名に合力(「みんなで力を合わせようぜ」的)を求める書状を出すなど、権力を振りかざすようになってきたのですね。


これには信長もクレームをつけたくなり「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を義昭に突きつけ、承認させます。

「殿中御掟」の内容とは、早い話が「将軍の権威を抑え込むため」のもの。

勝手な将軍の行動を諫めたのです。

この時も「どちらかといえば懸命に説得」のようない姿勢だった、ともいわれていますが、姿勢はさておき、事実、このクレームが後の敵対関係の第一歩となるのです。


さてさて、ここから信長と将軍足利義昭による、周りを巻き込んだ戦が始まります。

  • 1570年、「姉川の戦」で「浅井長政」「朝倉義景」に勝利。
  • 1571年、比叡山延暦寺を焼き討ち。
  • 1572年、足利義昭の呼びかけに応え「武田信玄」が3万の兵を率い「三方ヶ原の戦」で「家康軍」を破る。これにより、一時は「尾張国」、危機的状況に。
  • 1573年、「武田信玄」の死(病死といわれているが、実際には詳細不明)により、危機回避。

そして同年、足利義昭を「河内国(かわちのくに / 大阪府)」に追放、ついに室町幕府を滅ぼすのです。

その後、

  • 「越前国(えちごのくに / 新潟県本州部分)」に攻め入り「朝倉義景」を自害させ「越後国」を支配下に置く。
  • 「小谷城の戦」で「浅井長政」を自害させ「近江国(おうみのくに / 滋賀県)」も支配下に。

── また登場人物が増えています(皆、滅ぼされてしまいましたが)。

姉川の戦

    浅井長政:「近江国(おうみのくに / 滋賀県)」の領主
     → 1567年に信長は「浅井長政」とも同盟を結ぶ
     → 信長の妹の「お市の方」が正室( ← 本妻・正妻のこと。つまり「浅井長政」は信長の義弟です)
     → 初陣(野良野の戦)の際に「朝倉義景」の援助を受けたこともあり、こちらとも同盟関係あり
    △ 「信長」とは同盟関係のみならず義弟でもあったが、最終的には「朝倉義景」に対する義を優先させ、信長から離反
    △ 1573年、妻(お市の方)と3人の娘を「羽柴(豊臣)秀吉」に引き渡し自害

    朝倉義景:「越後国」の大名
     → 室町幕府からも力を必要とされる存在
     →「信長」VS「足利義昭」となったことで、おのずと義景も「信長」と敵対関係となる

なぜ「比叡山」は焼き討ちされたのか

  • 「浅井長政」「朝倉義景」両名を匿ったため。
     → また、彼ら宗教勢力も結構力を持っていました。鉄砲などで武装して攻めてくることも珍しくはない時代だったのです。

  • 武田信玄:「甲斐国(かいのくに) / 山梨県)」の名武将
     → 最強と謳われる騎馬隊を率いた

なぜ「信玄」が登場したのか

もともとの「尾張国」から始まり「美濃国」「近江国南部」等、畿内の多くで敵を討ち、乱を鎮め治めてきた「信長」。

同盟関係にある「家康」の「三河国」「遠江国」も含め、近畿・東海の大部分を勢力下に置き、さらには比叡山まで焼き討ちにした「信長」ですが、それでもまだ天下統一に至れなかったのは、上記「浅井家」「朝倉家」を含む反対勢力が残っていたからです。

足利義昭は、残存している信長を倒さんとする勢力のトップに、と「信玄」に呼びかけたのですね。

信玄自身も、勢いを増す信長の反対勢力に対しての軍事行為の勢いにハラハラしていたため、前述の通り、3万の兵で応戦。

そして「家康軍」を大敗に追い込み、このまま「尾張国」も、といったところで病に倒れたわけです。


ここで、完全に形勢逆転。

信長は一挙に「室町幕府」を滅ぼすことになったのです。


この時点で信長は「織田政権(畿内中心)」を確立。

政権を掌握、つまり天下人です。

他の有力大名は力を抑えられ、戦乱の時代もいよいよ終わりを迎えるかに見えました。


そして1575年、「長篠の戦」で信玄からバトンを渡された息子の「武田義信」に勝利。

この戦いが、有名な「火縄銃」対「騎馬隊」の戦です。


その翌年の1576年には「安土城(滋賀県)」を築きます。

1582年、上記「武田義信」を今度は完全に滅ぼします。


信長の勢いは止まりません。


── ですが、ここで「本能寺の変」なのです(1582年)。


「明智光秀」の謀反、下克上ですね。

信長が普段から「明智光秀」を目の敵にしていたため、などといわれていますが、理由に関して実は定説はありません。

ミステリなのです。


が、理由はさておき、包囲されたことに気づいた信長は、お城に火を放ち、自害。

最後も壮絶です。


そして、初めの方に書きました「この時代の大まかな流れ」へと続いていくわけです。


明智光秀により信長は倒れましたが、彼の打ち立てた政権は、その後秀吉政権、家康の江戸幕府へと引き継がれる形となり、戦乱の時代は終息に向かい始めるのです。

「家康」の生涯(「信長」との絡み)


さてさて「家康」です。

信長の生涯が49年だったのに対して家康はもの凄く長生き。

そのすべてを挙げていきますと とてつもない長さになってしまいますので、信長と絡んでくる部分を中心に、その他重要なところのみ、見ていきましょう。


まずは誕生。

1542年に「三河国」で「松平弘忠」の息子として生まれます。

信長より9歳年下。

名前は「竹千代」。

そして前述の通り、1548年には「織田家」、1550年からは「今川家」の人質として過ごします。


1548年、家康は6歳。信長は15歳。

1550年に今川家に行くまで、二人には面識があったのです。

真偽のほどは定かではありませんが、この時仲良く遊んでいた、などともいわれています。

確かにちっちゃな子どもと、そこそこの年齢の子ども。仲良くなっても全くおかしくはありません。


1557年、16歳で家康は結婚。

お相手は「今川義元」の姪。「瀬名姫(築山御前)」です。


そして1560年の「桶狭間の戦」。家康のターニングポイントの一つでもあります。

当時18歳だった家康は、今川軍の先鋒(隊の先頭に立つ者)を務めるのですね(「松平元家」を名乗っていました)。

相手は信長です。


「今川義元」が討たれ、家康は今川家から解放。

故郷である「三河国」の岡崎城に戻ります。


2年後の1562年に信長との「清州同盟」が結ばれるわけですが、この間に実は何度も信長とは対立しています。

実際には二人が対立、というより父親同士(「織田信秀」と「松平弘忠」)がかつて宿敵だったことも要因となり、なかなか話がまとまらなかったのです。


結局家康の叔父である「水野信元」の取り持ちで信長と和睦。同盟成立、となるのですが、実際には力のベクトルは信長に向いていました。

軍事力の差が歴然としており、どうしても信長の顔色を伺いながら……といった関係でもあったわけです。


「清州同盟」の名称は、家康が当時の信長の居城であった「清州城」に出向いて会見し結ばれた同盟であることから。


ここから今度は「武田信玄」が絡んできます。


1568年、武田信玄(甲斐国)と同盟を結び、「今川家」を攻める。

今までお世話になっていたところですね。義元は先の戦でなくなっていますが……


この戦により「遠江国」の大部分を手中にします。


が、翌1569年、武田信玄から突然の同盟破棄。

手にした「遠江国」を攻められます。

こうして「家康」と「信玄」は完全な敵対関係となるのです。


そして信長と足利義昭が敵対関係に。

前述の「姉川の戦」では家康は信長を助け活躍するのですが、1572年には、宿敵「信玄」の前に大敗を許してしまいます(「三方ヶ原の戦」)。


1573年、信玄が病死。

室町幕府も滅びます。


その後、信玄の息子を「長篠の戦」で破ったのも「織田・徳川連合軍」です。


さてさて、ここで「信康事件」です。

1579年、家康の正室「築山御前」と息子の「松平信康」が武田家と通じている、として信長から処刑を命じられるのですね。


これは……惨い。


この情報を信長に伝えたのは「徳(五徳とも)姫」。


信康の妻であり ── 信長の娘でもあります。


信康と徳姫が結婚したのは信康9歳の時。

もう、これでもか、というほどの完全な政略結婚です。


また、思い出していただきたいのが「築山御前」。

彼女は今川義元の姪です。

つまり、息子のお嫁さんは叔父の仇の娘。

ですので、日常的に今でいうところの「嫁いびり」をしていたとかいないとか……ともいわれています。


結局、家康は妻「築山御前」を護送中に暗殺させ、信康には切腹を命じるのですね。

信康の介錯をしたのは「服部半蔵」。

何気なく、すごい人が出てきます。


── というのが「信康事件」といわれるもの。

ですが、この後も信長と家康の関係に変わりが見られなかったことから、

  • 家康と信康の間の対立が原因ではないか?
  • 切腹を命じたのは信長ではなく、家康の意思であり、信長は「家康の思う通りにすればいい」、といった立場だったのでは?

などなど、様々な説が生まれています。

実際にはどうだったのでしょう。

天下統一を果たした家康のことを、あまり悪者にはできない……ということもあり、理由は後付けで「信長からの命により」となったのかもしれません(が、本当のところは謎です)。


その後も信長を助け、ともに戦は続き、本能寺の変により信長自害。

先ほど書きました通り、全国統一の流れは今度は「豊臣秀吉」に向かいます。


家康は、といいますと、信長の後を受けた秀吉との戦いをしばらく続けるのです。

それが1584年の「小牧・長久手(こまき・ながくて)」の戦。

「羽柴(後に豊臣)秀吉」陣営と「家康・織田信雄(おだのぶかつ)」陣営での戦いです。

なかなか決着がつかず1年以上に及びます。

    織田信雄: 信長の次男
     → 織田家の有力家臣の「柴田勝家」と敵対関係になった秀吉は「織田信雄」らと共に戦い勝利
     → 大坂の地をおさめることになった秀吉は「信雄」を含め多くの大将たちを招いていたが、信雄は後に「安土城(大坂)」を退去させられる → これ以降「秀吉」とは不仲に
     → 家康と同盟を結ぶ

1585年には秀吉が関白になります。

そして1586年、大坂城に家康を呼び寄せる際、家康のいる「岡崎城」に実母である「大政所」を人質として向かわせるのですね(勝手に)。


前述の通り「人質」である実母が家康サイドにいるため、秀吉は下手なことはできません。

「あなたのお命を取る気などはサラサラない」のような気持ちを伝えるための策。

その後家康は秀吉の家臣になります。


さすが策士、秀吉。


1590年、いろいろありましたが秀吉は天下を統一。

家康はその恩賞として関東地方をもらうことに。

だから江戸幕府。


そして、秀吉が死没。

ついに家康の天下がやってくるのです。


そして、やはりというか何といいますか……


1615年、かつて秀吉に後見を任された息子の「豊臣秀頼」と戦い、豊臣家を滅ぼすのです。

これが「大坂夏の陣」。


翌1616年、徳川家康は病気のため死亡 ── 享年75歳でした。

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「織田信長」と「徳川家康」の比較!


これは日本が経験してきた、本当にあった時代。

そこからして、ちょっと信じられません。これはもはや、物語です。

ですがこの時代の誰もが、私たちと同じように毎日を生きていたのですね。


うーん。
やっぱり、現実感が乏しい。

全部フィクション、といわれた方がしっくりくるような気もします。

政略結婚。裏切り。大体天下統一って……今の日本は平和です……平和、ナイス。

でも ── これらのどこかが違っていたら今の日本はないのかもしれないのですね。


……戦国時代、侮れぬ……


「織田信長」「徳川家康」、二人の軌跡は上記の通り。

では、最後に彼らの功績をまとめていきましょう。

代表的な「織田信長」の功績


    楽市楽座
    ★ 「座」とは商工業の同業者組合のようなもの。座に属す商人は寺院などに税金を納める代わりに特別な保護、特権を得ていた。彼らが市場を独占していたが ──

  • 楽市: 課税を廃止。その代りに特権もなくす
  • 楽座:「座」自体も廃止
     → 新しい商人たちが非課税で自由に取引のできる場となり、城下町は繁栄。また、「座」からの税金が入らなくなった寺院などの勢力も衰えることとなり、信長、一石二鳥。

     ➡ 実際には: すべての都市を完全自由化したのではなく、有力商人や「座」については基本的には保護の姿勢。
    特に自治都市である「堺」の商人には、経済的な特権を与える。
     → ゼロからのスタートは非合理的。流通や集金などの面からも、保護し、そのまま使える仕組みは利用、との考えから。

  • 関所の廃止
    ★ それまでは関所を通るたびに通行税を払わなければならなかったため、取引は近場だけで行うのが一般的だったが ──

     → 関所を取り払うことで、商業が発達。物資も多く集まることに。
    また、道の整備、川には橋をかける等も行い、品物だけでなく軍隊も素早く移動できるようになった。

    キリスト教の布教を許可
  • 信長に反抗する仏教の勢力を抑えることに。
  • 南蛮との貿易により利益を上げる。

代表的な「徳川家康」の功績


    武家諸法度: 江戸幕府の出した大名を統制するための法令
     → その後、将軍の代が変わるごとに出されることに

    禁中並公家諸法度: 朝廷、公家の地位を確定したもの(行動、あり方についての規定)
     → 幕末まで、改訂なし

    戦のない平和な時代、徳川260年の礎を作る

信長はヒーロー扱いされても、家康がそれほど好かれていないのはなぜ?


これには小説や映画などでの描かれ方も多分に影響しているとは思うのですが……

実際に「家康」がたどった生涯をちょっと悪意を持った視点から見てみると、

  • まずは「今川義元」に従属

  • 桶狭間の戦いで「今川義元」、信長に敗れる
     →「信長」と同盟
     →「武田信玄」とともに、かつてお世話になっていた「今川家」を攻める

  • 「信長」自害
     → 織田家の力を受け継いだ「秀吉」に従う

  • 「秀吉」病死。息子(秀頼)の後見人となる
     → 豊臣家を顧みず、最後にはその「秀頼」率いる豊臣家を滅ぼす

……節操がないというか、なりふり構わずというか、仁義がないというか……な生涯なのですね。


これは戦国の世であれば当たり前、しかもその目的は「戦のない世の中を作るため」なので、良いといえばいいのでしょうが、志半ばに倒れた「信長」と比べてしまうと、どうしても分が悪いのです。


実際には「信長」も、派手で新し物好き、破天荒といったイメージとは違い、むしろ保守的で合理的な人物だったともいわれています。

日本三大奇襲でもある「桶狭間の戦い」での印象も強いため、奇策を講じて戦う、少人数でも果敢に大軍に挑んでいく、といった戦法を好んだと思われるかもしれませんが、この戦いは例外なのです。

信長本来の戦い方は、十分な数の兵を集め、その勢いで押し切る感じ。基本、正攻法での慎重な戦い方です。


そして「長篠の戦」での鉄砲。

あの有名な「三段打ち」は、おそらく後付けのフィクションではないか、と多くの研究者は考えているようです。


また天皇や公家にたいしても、決して横柄な態度を取っていたわけではなく、敬う姿勢を見せ、また寺院のすべてと敵対していたわけでもないのですね。

「向こうが逆らうなら、こちらも容赦はしない」なだけだったのです。


そして二人の仲。

本当のところは誰にもわかりませんが、「信長」は「家康」をないがしろにすることはなく、幼少期の家康と一時共に過ごしていたこともあり「頼りになる弟分」のように思っていたのではないかと思われます。

また天下を取った後「家康」も、「信長」の弟や息子に対し「大名」の地位を与えています。

仲、関係は、それなりに良好だったのではないでしょうか。


ただし、時代は戦国。

現在では考えられないような思惑などがあったとしても、それはそれでおかしくないことのような気はしますが……

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終わりに……


歴史は面白いのですが、登場人物の数も もの凄い ── 簡単に書けず申し訳ありません。

また、いろいろな説があるのも歴史の特徴。

実際はどうだったのか、完全に知ることはできないのも魅力の一つのような気がします。


歴史はロマン。


信長が、実はそれほど先見性もカリスマ性もなかったとしても、家康が仮に黒幕として密かに時代を動かしていたとしても、わからないのです。

ですが、その時代があって今がある。


おぉ、ロマンです!!


さてさて、いかがでしたでしょう。

こうしてみると「ホトトギス」を使った例えは実に二人(秀吉も入れれば三人)をうまく表わしているような気がします。



天下を取るため、弊害となるものを破壊し続けた「信長」。

ひたすら時を待った「家康」。



皆さまの「信長」「家康」に対するモヤモヤが、少しでも解消されていましたらうれしいです。


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