学校で習うのが「勉強」で、塾で教えてくれるのが「学習」?
それ「○○学習塾」とかからの発想ですか?
でもそう言われれば、確かに「○○勉強塾」って聞かないですね……
あれ? じゃあ、これが正解?
……正解じゃないです……
どちらも知識や技術を学んで身につける、といった意味を持つ「勉強」と「学習」。
ほとんど同じように使われています。
が、ちょっと違う。
「○○勉強塾」と同様、「勉強指導要領」とも言いません。「学習指導要領」ですね。
ではなぜ「勉強指導」ではなく「学習指導」なのか? 2つはどのように使い分けられているのか? などなど、「学習指導要領」についても含めまして「勉強」と「学習」の意味や違いを解説いたします。
皆さまの「どう違うの? っていうより、違うものなの?」的モヤモヤが少しでも薄れましたら幸いです。
目次
「勉強」と「学習」は何が違う?
皆さまが学生さんでしたら学校での「勉強」「学習」、社会人の皆さまの場合では、日々の生活の中での「勉強」「学習」、そして犬や猫、魚や昆虫でさえしている「学習」。ですが人間以外は「勉強」はしないのです。
また、学校でのことを指していうのか日常生活全般でいうのかでも「勉強」「学習」の意味は若干変わってきます。
まずは辞書的な意味から見ていってみましょう。
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◎勉強
- 学問や知識、技術などを身につけるため学ぶこと
- (将来のためになる)経験、またはそれらの経験をすること
- 商人が値引きをすること ◎学習
- 学び習うこと
- 人間も含めた動物が、経験を繰り返すことにより環境に応じた行動などを習得していくこと
先ほども書きました通り、2つに共通するのは
「知識や技術などを学んで身につける」といった部分。
このうち、主に学校などで身につける知識、技術を「学習」、そのための方法とされるものを指し「勉強」。また学校以外の場で実用的なものを学ぶといったさらに広い範囲で使われるのも「勉強」となります。
そしてどちらも「経験」を通して「将来のため」になったり「環境に応じた行動を習得」するわけですが、「勉強」の場合ですと、失敗などの経験も「いい勉強になった」に、また、同じような状況を繰り返し経験することにより「夕飯が焼き魚の日は、お母さんの機嫌が悪い。食べたらなるべく早く自分の部屋に引き上げよう」などとなるのが「学習」です。
かの有名な「パブロフの犬」の実験(「ベルが鳴ったらエサ」を繰り返すことで、エサがなくてもベルの音だけでヨダレが出る)も、犬の「学習」によるものですね。
また「勉強しまっせ(しますよ、でもいいです)」というのは「値引きしますよ」の意味です。
もともと「勉強」の意味としてあったのは実はこちら。
知識や技術云々は、そのあとに加えられた意味なのですね。ちょっとびっくりです。
さて、場面により少しづつその意味も変わってくる「勉強」「学習」ですが、タイトルにもある「学習指導要領」、これは、小・中・高等学校、特別支援学校の教育にかかわるもの。
上記各学校を対象とした教育課程(カリキュラム)の基準です。
そして「教育」とは「教え育てる」こと。
学校で教わるのは何か。
「学習指導要領」というくらいなので「学習」なのですね。
「学習」とは
「勉強」により学んだ(習った)知識などを、自分のものとして身につけることです。
そして「勉強」とは
「学習」により知識等、身につけていくための手段のようなもの(学校教育でいえば)。
また、テストに出るようなことだけでなく、友達を大事に思ったり、みんなと協力して何かを成し遂げたり、ケンカしたり仲直りしたり、といったことを通じて人間的にも成長していく場所が学校であったりもします。
それらも含め「学習」なのですね。
だから「学習指導要領」。
ほぼ10年ごとに見直しや改訂をしつつ、賛否分かれる部分もあるものなのですが「学習指導要領」とは、勉強の面だけではなく、生徒指導や校務分掌(進路指導や問題行動への対応など、学校運営にかかわること)についての基準として定められているものです。
さらにいえば学校教育での「勉強」とは「教えられる」ものであり、それに従って知識を身につけていくこと、一方の「学習」では「自分にとってわからないこと」を「自分自身の視点から探って」いき、結果知識などが身についていく、その過程を指す言葉でもあるのです。
「勉強」とは将来のために教わりながら身につけていくものを、「学習」とは「勉強」で得た知識、習ったこと、またはその他経験から得たものを、繰り返しながら習得していくもの。
少し抽象的ですが、まずはここを押さえておいていただき、ではまずは「勉強」について、少し詳しく見ていってみましょう。
「勉強」とは?
……あまり好きじゃないです……私も含め、できればしないでも頭がよくなればいいのに、と思っている方々が星の数ほどいるであろう「勉強」(たぶん)。
何となく「勉強」と聞いただけでやる気が失せる……今やろうと思ってたとこ! と言いたくなる理由は、本来の意味に隠されていました。
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「本当は気が進まないことを仕方なくする」
先ほどの「勉強します」の商人バージョンは実に江戸時代から使われている言葉。
上記の「本来の意味」にあてはめてみますと、ものすごくスッキリします。値引きなんて、本当はイヤなのです。心の中では「ちゃんと正規の値段で買ってくれよ」と思っているのですね。
そんな「勉強」が現在のように「学問や知識、技術を~」の意味として使われるようになったのは、それからしばらく経っての明治時代以降。
知識を得るための努力が美徳とされ、「学習」とほぼ同じような意味で使われ始めます。
やはり「努力する」ことは「気が進まないけど、まぁ美徳だし……」のような感じだったのでしょうか。
「勉強」を構成している文字を分解してみてもわかります。
「勉め(つとめ / 常用漢字では努め)」「強いる」。努力を強いています。
と、この語源は確かに衝撃ですが、現在ではもう「学習」とほとんど同じ。毛嫌いばかりもしていられません。
先ほども書きました通り「将来のため」に知識を身につけるのですね。
学校での「勉強」は大切です。
「勉強」には「精を出してつとめる」といった意味もあります。
ちょっとくらい無理をしても、頑張らなければテストでいい点は取れませんし、それ以前の問題で、次に進めなくなってしまいます。
そのために先生がいて、授業を受けながら必要な知識を身につけていくのが「勉強」です。
出された宿題を家で解くのも「勉強」。
塾であっても同じ。やっているのは「勉強」です。学校の先生が塾の講師に変わっただけですね。解き方の法則や、文法などの知識を、授業を通じ身につけていくわけです。
「勉強」とは教えてもらったことに従い、その知識を使い答えを出していく、そしてそれが将来に繋がっていく、といったもの。
「教え」があるということは多少の「強制」もつきものです。
積極性に欠けるようにもみえますが、そんなことはありません。「勉強」をすることも大事なことなのです。
そして「いい勉強になったよ」などと使われる場合の「勉強」。
失敗やつらい経験もときにはあります。
ですが、それらを乗り越えることで自分自身の成長となる、もしくは、もう同じ過ちは繰り返さないと思える、などを指し「勉強」なのですね。
怖いお兄さんたちに多めにお金を取られ(要するにぼられ)「授業料だと思って諦めな!」や「高い授業料だったなぁ……」なども「勉強」の代金が高くついた、と言い換えることができます。ですが最悪な事態。こういう「勉強」は極力避けてください。
では「学習」とは何か?
上記の「勉強(特に学校での)」を続けていくには少なからず努力が必要。
興味のない分野ですと、その努力の値は跳ね上がります。
結果「もう、勉強するのイヤだ」になってしまうこともありうるのですね。
そこで登場するのが「学習」です。
では、続いてその頼れる助っ人「学習」についてみていってみましょう。
「学習」とは?
学び習う「学習」。特に学校などで知識や技術、技能等を学ぶことを指す言葉ですが、「学習」で大事なのは「身につけるために繰り返し学ぶ」というその過程です。
「学習」とはつまり「学ぶ」こと。
「学ぶ」には「真似る」の意味もあり、まずはそこからのスタートです。
小さなお子さんが大人の言葉を真似、いつの間にか自分の言葉として話せるようになるのと流れは一緒。
例えば、先ほどの「もう、勉強するのイヤだ」。
なぜイヤなのか、といえば、要するに面白くないからなのです。
教えてもらっても、全然入ってこない。ついていけない。興味もなし。なのにやらなきゃいけない……そりゃイヤにもなります。
「学習」とは自分の中に生まれた「なぜ?」や「知りたい」を、そのやり方も含め探っていくことでもあります。
自分の知りたいことなので、その答えがわかれば単純にうれしいし楽しい。これを繰り返すことによって、そのことは自分の知識としてすっかり定着していくのですね。
わからなかったことに関しても同じです。
わからないその前の段階に戻って考えてみる、それでもわからなければ、さらに前へ、と簡単なところから攻めていき「あ、わかったかも」となれば、それは達成感にもつながります。だんだん楽しくなってきて、最終的にはしっかり身につく、といった感じですね。難しいことはできるところから、簡単なことから挑戦です。
「学習」とは、学校などで知識を身につけていくことではありますが、「勉強」とは違い、教えられたとおりの方法である必要はありません。
教えられたことを応用して考える、自分から興味を持って学ぶのが「学習」です。
そのことにより理解して納得する、ここがポイント。
そして、こうなってくると「勉強すること」自体が面白くなってくるのですね。
テストでいい点を取るためには「勉強」が必要。
そしてその知識に対し、理解・納得の段階を踏み身につけていく一連の作業が「学習」です。
また、先ほども書きました「経験を繰り返すことにより環境に応じた行動などを習得していくこと」の意味での「学習」。
これが上記のお子さんが言葉を習得していくなど、その一連の流れを指していう「学習」ですね。
同じような経験を何度も繰り返せば、さすがに「こうしたら、結果こうなるようだ」と薄々感づいてきます。
「勉強」をして得た知識ではありませんが、身につく知識。経験によるものですね。
さて、学校で教えてくれるのは授業などからの知識だけではありません。
先生や友達との関り、または今後社会に出ていく上で必要となるさまざまなこと、それ以外にも学ぶべきことがたくさんあります。
これらを含め、すべてが「学習」。
そして先生たちにとっては「教育課程」の中で教えていくべきこと、になるわけです。
そこで「学習指導要領」となるのですね。
本筋とは若干異なりますが、「学習指導要領」とはどのようなものか、について簡単に見ていきましょう。
「学習指導要領」ってどんなもの?
今度は教える側、先生サイドのお話です。先ほど書きました通り、「教育」とは教え育てること。
知識や技術はもとより、心身共に善良な人間になるよう、人を導く、といった意味のある言葉です。
すごいです。責任重大です。
「学習指導要領」とは学校教育法施行規則に基づき、その基準として文部科学省告示として官報により公示されるもの。
教育課程全般に関すること、各教科の内容やその指導方針の要点、また教科以外の道徳・特別活動についても定められています。
え! そういうことって法令で決められてるの?
それってどうなの? といった意見もありありだったため、「学習指導要領」は何度か大きな改訂がなされています(ほぼ10年に1度見直しか改訂)。
そこ、法令で決めること? との疑問はまったく正しい意見だと思うのですが、すべてを教育現場に委ねてそれぞれの学校の判断に任せてしまう、というのもまた、困る部分も出てくるのです。受けられる教育に差が出てしまうのは「教育」としてあるべき姿ではないのですね。
ということで、現在は「上限を限る歯止めではなく、最低基準である」とされています。
なんらかの「教えるべき基準」は必要。でも、何から何まですべてをその通りにしなければいけないのではなく、「これだけはやってくれ」といった感じですね。それにより全国で学校教育の水準が維持されているわけです。
さてさて、「指導要目」とされていた従来版が「学習指導要領(試案)」とされたのは戦後まもなくの1947年のこと。
それまでの戦時体制に組み込むための教育から、目的を「民主国家、社会の形成者」に育てるものと新たにし、学校教育の水準とそのための内容を定めたものが「学習指導要領(試案)」(当時の文部省による)。
「試案」とあるのは、法令としてではなく、実際の教育現場でその内容は工夫され決められるべき、とされたからです。
そして当時は戦後という状況のもと、その復興を助ける実務能力の習得に繋がる「経験主義」的なものを中心としたカリキュラムが組まれていました。
その後の流れをサラッといきます。
- その後「系統学習(知識・技術など一つのまとまった授業内容を一定の筋道に従い習得させること)」が重視された、詳細なものに。また教科の内容についての強制力が強まる → 日本では「高度経済成長」の時期
- 詳細な授業内容になったことで、ついてこられない いわゆる「おちこぼれ」が生まれる → 1970年代
- その反省を受け生まれたのが「ゆとり」カリキュラム(80年代)
- さらに教科内容が削減(90年代)
- ついに学校週5日制導入。内容・時間ともにさらに削減(2000年代) → これらの期間のことを指し「ゆとり」教育
- 「ゆとり教育」による学力低下が懸念され「学習指導要領」の見直しとなる → 日本の国際競争力も低下してきた時期
- 「学習指導要領」が、上記の「上限を限る歯止めではなく、最低基準である」とされる
→ 2003年。こののち1年ほどで脱「ゆとり」化が進む - 「脱ゆとり」意識強し。内容・教科書のページともに増加。教育現場の負担も増加。今度は「つめこみ教育」「おちこぼれ」に対しての密かな懸念あり → 2008年。
- その後も細かい見直しが繰り返され、今後も見直し、改訂は続く……
★教科書は「学習指導要領」に基づいて編集されており、このころまでは「学習指導要領」に書かれていない内容の記載は事実上禁止でした。
教科内容や学習事項を年齢別に分けたもの、授業時間編成、また教科書を作る上での基準となるものです。
そして、なぜこのような基準を設けるのかといえば、どの児童生徒にも一様に、「心身共に善良な人間」になってもらいたいから。
そのための教育課程であり、それらすべてを「学習」することにより、そうなれるはずの基準だからですね。指示語だらけですが。
ですので「『学習』指導要領」なのです。「『勉強』指導要領」では、それはできないのです。
「勉強」と「学習」のまとめ♪
♦【勉強用BGM・音楽】 『α波』が集中力を高める!ピアノの音色&さざ波
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KhRV7pTWWGE&w=560&h=315]知識や技術などを学んで身につける「勉強」と「学習」。
実際にはそれほど細かく分けて考える必要もないものなのですが、気になり始めたら「勉強」が手につかない……「学習」どころじゃない……
……それは困ります……
では、もう一度ここで「勉強」「学習」の違いについてのおさらいです。
まとめていってみましょう。
それぞれの意味は?
- 勉強: 将来のために誰かに教わりながら、知識や技術を身につけるため、学ぶこと / 商人が値引きをすること
→ ポイントは「将来のために努力を続ける」 - 学習:「勉強」により得た知識を自分のものにするため、繰り返し学ぶこと / 教えられたことだけではなく、そのことを応用して考え、興味を持って学ぶこと
→ ポイントは「理解して納得」
★ 一人で勉強し「お、わかったぞ!」と思っていたことが、みんなと話してみて「え! そっちの意味か! 勘違いしてた!!」などということは、結構あるものです。そして、こうして間違いに気づいたものほど、しっかりと理解できるようになったりします。
また、完全に自分のものとしてその知識を定着させるには「それについて、誰かに教える」というのもかなり有効。
これぞ「学習」ですね。
➡ ➡ ➡
- 一人でコツコツと努力し、励むのが:「勉強」
- 人やモノとのかかわりの中で、失敗も含め、習得して(身につけて)いく過程が:「学習」
学校では?
- 勉強: これ、大事。先生に解き方などを教えてもらって、頑張って「勉強」してください。「算数(数学)なんて、絶対将来役に立たないって!!」などと思うかもしれませんが、なんだかんだ言って、結構役に立っています。
- 学習: 勉強して得たせっかくの知識を、その場限りのものにしてしまうのは大幅に損です。何度も繰り返し、完全に身につけてしまいましょう。授業中のやり取りや普段のお友達とのかかわりも、すべてが「学習」であると言えるのです。
「学習指導要領」では「学習」ってどんな扱い?
教育課程のあれこれの基準である「学習指導要領」には、「勉強」以外の学校生活についても含まれています。「教育」とは「教え育てる」こと。
なぜ「教え育てる」のかといえば、それは児童生徒全員に善良な人間になってほしいから、です(言い方は堅いですが)。
ですのでここでいう「学習」とは、
それらすべてを含むもの。
「勉強」の仕方の指導の基準ではなく、学校生活全般についての指導基準、そしてそれを「学習」としているのですね。
学校以外での「勉強」「学習」は?
- 勉強: いろいろな経験を積むこと。または将来のためになるそれらの経験のこと / 商人が値引きをすること、値段をまけること。
- 学習: 経験を繰り返すことにより、環境に適応した行動などを身につけていくこと。人間だけでなく、動物も「学習」します。
終わりに……
うーん。「勉強」「学習」そのものより、この違いの方がややこしかったりしないか……?
いや、やっぱり嫌いな分野の「勉強」のやりたくない度が最強か……
引き分けですね……
ですが、そう難しく考えなくても大丈夫です。
「勉強」と「学習」を混同していても、肝心の「勉強」と「学習」がしっかりとできていればいいのです。
……やっぱりややこしいですね。
さてさて、いかがでしたでしょう。
呼び名なんてどうだっていいじゃん、な気もしますが「勉強」「学習」の立ち位置は、それなりに違うものなのです。
皆さまの「どっちがどっちなの?!」なモヤモヤが、少しでも解消できていましたらうれしいです!
関連記事はこちらになります。
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