初詣、七五三、結婚式、お葬式、ハロウィン、クリスマス……
まさに「ゆりかごから墓場まで」といった感じでお世話になっている「神様」「仏様」。
日本には神社も寺院もどちらもたくさんあります。
ですが、
-
ほとんどの日本人は、一神教の国の方に比べればそれほど厳格な気持ちで「神・仏」に対して祈りを捧げたりはしていない。
でも、お祭りもあればイベント的にお参りをしたりもする。
しかも、この時は「神社」で、この時には「お寺」などなど、入り混じり……
でも、それに対して神様にも仏様にも怒られたこともなし……
寛大です。
寛大なだけに「とりあえず神様でも仏様でもいい。助けてくれればどっちでもいいから!」的な失礼な状態にもなっているわけですが、
-
「神様」「仏様」とは、実はどのような力を持っているのか?
何を期待しつつ、お参りなどをすればいいのか?
はたまた、「神様」「仏様」って何人いるの?
などなど、謎だらけなのです。
この際「神様」「仏様」について、少し詳しくなってしまいましょう。
持っているとされる「力」、また、どのような種類の「神様」「仏様」が存在しているといわれているか、などなど含めまして「神・仏」の違いを解説いたします。
本当に「神様」「仏様」がこの世に存在しているのか、は(私には)証明のしようがありませんが「仏」のような人、「神」と呼びたくなるような人がいることは確か。
そのモデルでもある本物の「神・仏」について、皆さまのモヤモヤが少しでも薄れましたら幸いです。
(※ 宗教として何らかの「神様」「仏様」を信仰しておられる方には「そうじゃない!」と思われる部分もあるかと思いますが、あくまで一般論として、以下書かせていただきます。どうぞご了承ください)
目次
「神様」と「仏様」の違いはココ
ひと言でいいますと、「人は神にはなれないが仏にはなれる」
ここが最大の違いかと思います。
「仏」とは元々は人なのです。
「仏」というのは =「悟れる人」の意味を持つ「仏陀(ブッダ)」のこと。
そして、この世で最初に真理を悟った人が「お釈迦様」です。
ですので、本来「仏様」とは、この「お釈迦様」のことを指しているのですね。
さてその「お釈迦様」ですが、真理を悟る前は何をしている人だったのか?
インドの王子だったのです。
名前は「ゴータマ・シッダールタ」。男性です。
そして人々の「生・老・病・死」の苦しみを取り除こうと修行を積み、ついには悟りを得て「仏(= 仏陀)」=「お釈迦様」となったわけです。
「お釈迦様」となった「シッダールタ」さんがその後、仏法の開祖となり、人々に教えを説いていくのですね。
日本には六世紀に伝来。
そしてのちに、修行を積みお釈迦様同様、悟りを得た人についても「仏」の言葉は用いられるようになるのです。
つまり、
「仏」とはそもそも人が修行を積むことでなりうるもの。
「仏」という存在が、初めからあるわけではないのです。
では一方の「神」はどうか?
こちらはもう少し複雑なことになっているのですが、どの神様であっても「人間をはるかに超えた存在」なのですね。
努力や修行でなれるものではない存在。
この世界も生き物も、すべてを創造したといわれるほどの絶対的な存在なのです。
ただし、日本のようにたくさんの神様がいる国もあれば、たった一人の神様だけを信仰している国もあります。
「神話」に登場する神様も、人間が「神」として祀られている例もあります。
「神様」にも、いろいろあるのです。
ではまずはその「神」についてから。
少し詳しく見ていってみましょう。
「神様」について
日本では古くには1月を「睦月(むつき)」、2月を「如月(きさらぎ)」のように呼んでいました。そして10月は「神無月(かんなづき / かみなづき)」。
日本の各地から「神様」のいなくなってしまう月なので、この呼び名です。
でも大丈夫。
島根県の「出雲大社」に集まり、あらゆるご縁についての協議をしているだけです。
ですのでこの時期、出雲の地域だけは「神在月(かみありつき)」となるのですね。
こちらの「出雲大社」にいるのは「因幡の白兎」の主人公でもあり、七福神の一人「大黒様」でもある「大国主命(おおくにぬしのみこと)」です。
その元へ、日本の全国各地から神様たちが上記の通り、協議をしにやってくるわけです。
日本にはたくさんの神様がいます。
「八百万(やおおろず)の神」
などと表現されます。
日本は海に囲まれた島国。
高く険しい山々にもそびえています。
古代の日本では、これらの自然に対し恐れおののき、威圧されつつも敬意を表し「人知を超えた力を持った存在」として、それらを崇めたのです。
「千と千尋」にも八百万の神様が出てきます。
最終的に「ハク」も川の神様でしたね。
誤解を恐れずざっくり言えば、つまりそのような感じです。
古代日本では、
主に自然物を「ご神体」としてそれぞれの地で崇めたものが皆「神」
だったのです。
そして「大和朝廷」の登場。
各地の豪族を統一していくのですが、その時、
「大和朝廷の祀る神がトップとなり、各豪族の崇める神を従える」
という体系が作られます。
「大和朝廷が祀る神」というのが「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
ご存知、照り輝く太陽を意味している女性の神様ですね。
自然物ではなく、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神とされています。
ですが、その対象は五穀豊穣や季節の順調な運行などを祈願すること。
農耕民族としては大事なことですが、人々の病苦や死への恐怖を取り除く、といったことをお願いする対象ではありませんでした。
こちらを担当しているのは「仏教」の方です。
古代日本における「神」への祈りはもっと素朴なもの。
自然への畏怖による漠然としたものでした。
そして、その後、前述の通り六世紀に仏教が大陸より伝来。
教義としても完成された形で入ってきた「仏教」と「神道」はそもそもの対象が違ったためか、ちょっとした曲折はあったものの、なんとか受け入れられたのですね。
ですが、そのうちいわゆる「密教」も登場し始め、それらが山岳地帯に修行の場を求めたため、その地の神道と衝突です。
が、様々な試みにより、2つを融合させ衝突は回避。
そして鎌倉時代です。
仏教も力を信仰の場を広げていきます。
新しい教えなども出てくるのですが、政治に絡んでくるなど、若干態度も大きくなってきます。
ですが、やがて封建体制に組み込まれてしまうのですね。
さて、ここで明治維新です。
体制が変わると同時に、時の勢力側にあった仏教界も、ことごとく消滅。
神道はここに復活を見せ、国家の祭祀とされます。
その後、戦争に突入。
戦後にはGHQ (連合国軍最高司令官総司令部)により国家と切り離され、現在では「政教分離(政治と宗教を分離させること)」となっています。
つまり、日本の神様とは、もともとは全国各地にいた自然物を崇めたもの。
それが時の政権により「神道」として立ち位置を変えられることになりますが、実に素朴な「自然への畏怖」から生まれた、聖なるものそのものが「神」なのです。
また「神話」に登場する神様もいます。
先程の「大国主命」も神話「因幡の白兎」に出てきました。
「ヤマタノオロチ」を退治した「須佐之男命(スサノオノミコト)」を主祭神とした「須佐神社(出雲市)」。
国産み、神産みを行ったとされる「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」は、その妻である「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」とともに「伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)」にも祀られています。
このように、日本各地には本当に様々な神様がいるのです。
さらには、学問の神様として有名な「菅原道真」は「天神様」として「天満宮」に。
(「天満宮」は各地にありますが、中には『菅原道真』とは関係ない神社もあり)
彼は人ですが、不遇の後に亡くなったその怒りを鎮めるために神格化。祀られることになったのです。
日光東照宮には、同じく神格化され「東証大権現」となった「徳川家康」も祀られています。
ついには「山、丸々一つ」をご神体としている神社。
いくつかの条件はあるものの、こちらの「ご神体」には登ることができます。
日本最古の神社といわれる、奈良県にある「大神神社(おおみわじんじゃ)」です。
実に様々。
これが多神教である日本(※ あくまで「一神教」に対しての意味では。現在の日本は無宗教を含めた多宗教。いわゆる「多神教」とは少し異なり「多神教の一種」といった位置にあります)の「神様」なのです。
そして、もう一つの形が一神教ですね。
ユダヤ教やキリスト教、イスラム教です。
実はユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、信じているのは同じ神様。
こちらの関係は、
- 「ユダヤ教」あり
- それを元として「イエス・キリスト」の教えにより「キリスト教」が誕生
- そこから「ムハンマド」による「イスラム教」が生まれる
ですが、キリスト教ではの信仰の対象は「父と子と精霊」。この「三位一体」を唯一の神としています。
イスラム教では、その「イエス」は神ではなく「預言者」の一人です。
「神」は人間とは隔絶した存在であるとされています。
それぞれに違いはあるのです。
日本では「人知を超えた力を持った存在」として主に自然物に対しての畏怖から「神」をとらえています。
いわばその土地土地での民間の信仰にも近いもの。
その中でもそれぞれに得意分野があり「縁結びの神様」「学問の神様」「安産の神様」などともされているわけです。
また日本とは少し違うのですが、同様に唯一の神を信仰しているのではない「多神教」の国それぞれにも神話はあります。
「北欧神話」や「ギリシア神話」「インド神話」「アステカ神話」など。
いろいろな神様が登場しています。
ですが、一神教の「神」は「唯一無二」の存在。
この世のすべての創造主であり(多神教の神様も創造主ですが、そこの強調され具合が違います)、絶対的な存在として信じる対象です。
だいぶ両者には開きがあります。
ですがいずれにせよ「神」とは、どちらの場合にも
「超越した力」を持ち、「信仰の対象」となっているもの。
人間には絶対に越えられない存在なのです。
「仏様」について
人知を超えた存在である「神様」を怒らせたら大変。ですので「神様」を祀る行事は多数存在します。
では「仏様」とはどのような存在なのか?
「仏の顔も三度まで」などともいいます。
きっと、三度までなら許してくれる優しい存在なのでしょう。
慈悲深い人を指し「仏のようだ」などともいいますね。
「仏様」、いい人そうです。
ですがお寺の前などには、まさに仁王立ちした「仁王像」。
もの凄い形相をしています。
全然優しそうには見えません。
彼らは正式には「金剛力士(こんごうりきし)」「執金剛神(しゅこんごうしん)」と呼ばれる伽藍(がらん / 僧侶が修行をする清浄な場所。または寺院など)を外敵から守っている仏様。
「仏」には、このように役割ごとに、いくつかに分類があるのです。
大きく分けますと以下のようになります。
- 如来(にょらい):「梵語(古代インドの文学語 / お釈迦様の出身地の言葉)」で「真実から来た者」の意味
→ 仏の中で最高の境地に至った存在。最高位。お釈迦様が悟りをひらいた後の姿。そのため仏像とされる場合には質素なものとなることが多い。 - 菩薩(ぼさつ):「梵語」で「悟りを求めるもの」の意味
→ 次に「如来」になる地位。お釈迦様が修行中で王子だった時の姿が原型。装飾品をまとったものが多い。 - 明王(みょうおう):「如来」「菩薩」に次ぐ格。「バラモン・ヒンドゥー教」の神々。
→ 人々を救済するため、如来の命により現れた仏。そのため形相は怒り顔。 - 天部(てんぶ):「天空・天上界に住む者」の意味
→ 上記「金剛力士」のように仏法を守る役割を持つ仏。
本質・真理に至るための図、とされているものですが、そこに描かれている仏様は1875。
八百万に比べると少ないですが、それでもとてつもない数です。
さらには仏様はあらゆるものに宿る、という考えもあります。
そうなってきますと、どうなってしまうのでしょう。さらにその数は増えることになりますね。
始めの方にも書きましたが、狭義では「仏様 = お釈迦様」です。
ですが
修行を積み、正しく悟りを得ることができれば、人は誰しも「仏」となれる。
なのです。
これが広義での「仏」。
「仏」とは「神」のように、「人間を超えた力・人に威力を持って影響を及ぼす」ものではなく、「自覚覚他」ともいわれる存在。
「自覚覚他」とは自分の智慧に目覚め、そのことにより、さらに他も目覚めさせることのできる働き、その存在を指します。
つまり、「仏」とは「目覚めたる者」。
その前身は人なのですね。
亡くなってしまった方のことを「仏様」といいます。
それはそれであっているのですが、お釈迦様の教え「輪廻転生(六道輪廻)」では少し違います。
そこには「死後の世界」はありません。
「地獄・畜生・餓鬼・人間・天界・阿修羅」
生命とはこの六つの世界を行き来するもの、とされているのです。
ではその来世は、何によって決められるのか?
「現世での行い」によってです。
生前に良い行いをしていれば、上記の中でもよりいい環境に生まれ変わることができる。
悪い行いを現世でしていれば、生まれ変わり先は当然悪い環境に。
地獄は……イヤです……
ですがとにかく、これがもう、何度も何度も繰り返されるわけです。
そして最終的に悟りを得た人が亡くなった時、初めて成仏してこの輪廻の輪から解放され、「仏 = 仏陀」となるのですね。
仏教の教えによれば、人の一生は「苦」。
そこから逃れるための方法が唯一「悟りを得ること」。解脱です。
それを目指すのが仏教。
そして「仏」となるためにはどのようなことをしていけばいいのかを説いたのが「お釈迦様」、つまり「仏」なのです。
「神様」「仏様」の違いをまとめる!
例えばキリスト教では「神のお言葉を実践しなさい」「疑わず神を心底信じなさい」などと教えます。仏教では「お釈迦様のように悟りを得られるように」そして「『仏』になれるように」と指導しているのですね。
「神」は絶対的な存在ですが「仏」には誰しもなれる。
というより「なるため」の方法を「仏」自身が説いているのです。
だいぶ違いますね。
ではここでもう一度おさらいです。
「神」「仏」の違いをまとめていってみましょう。
「神」「仏」ってどんな存在?
-
◎神
- 人間を超越した威力を持った存在
- 人知でははかることのできない能力により、人類を支配する力を持ち、災いと幸せをもたらす存在
- 人々が畏怖し、信仰の対象となる存在
- 神話や伝説などでは、人格化され超能力を持って活躍する存在 → ただし「多神教」と「一神教」でも変わってきます。
- 「お釈迦様」のこと(狭義)
- 悟りを得たもの =「仏陀」のこと(広義)
→「お釈迦様」も「仏陀」も、ともに「人」が解脱して(悟りを得て)なったもの。
「神」のような「絶対的存在」ではなく「真実の智慧を悟った者」「覚者(目覚めたるもの)」です。
△一神教の「神」: この世のあらゆるものの創造主であることに重点を置かれた存在
△多神教の「神」: 人知を超えた力を持つことに重点を置かれた存在
◎仏
ちょっと失礼な言い方だけど……どのくらい(数・種類)いるの?
-
◎神
- 多神教: 神話などに出てくる神様は数えきれないほど
→ 日本では「八百万の神」といわれるほど、多くの神様がおられる、とされています - 一神教: ただ一人です ◎仏
- 本来は「お釈迦様」一人を指していましたが、お釈迦様の教えにより「悟りを得た者」すべてが「仏 = 仏陀」
→ そのため「曼荼羅に」設定されている仏様は「1857」。また、あらゆるものに宿る、とも言われます。
→ 役割により、
△如来: 仏の中で最高の境地に至った存在。最高位。
△菩薩: 次に「如来」になる地位。
△明王: 人々を救済するため、如来の命により現れた仏。
△天部: 仏法を守る仏。
に分離されています。
そしてそのそれぞれに、例えば「薬師如来」「弥勒菩薩」など、多くの仏様が属すことになります。
それぞれの持つ「力」は?
- 神: 絶対的存在として、人間をコントロールすることさえできるとされています。また、すべての創造主なので、あらゆる法則すら変更可能
- 仏: 自らが目覚めた真実の智慧により、教えを説くことで他者をも目覚めさせる働き(力)を持ちます。
終わりに……
これは「どちらがいい」といった話ではありませんが、ここまで役割が違っていたとはちょっと驚きです。というか、「仏様」って人間だったのですね。
名前まで知ると、もの凄い親近感を感じてしまいます。
いや「イエス・キリスト」などの名前も知っているのですが、そういうんではなくて……
もはや「神様、仏様」と一緒に唱えてはいけないような気がしてきました。
本当に何かを信仰している方も、「困った時の神頼み」的、または何のための祭りか、にはそれほど興味はなけれど「祭り」と聞くだけで血が騒ぐ方もおられるかと思います。
神様・仏様は本当にいるのか。
そこは何ともわかりませんが、大自然の中にいれば、そこが「パワースポット」などでなくても何となく厳粛な気分になります。
お葬式や法事などでは、特別にその宗派を信じていなくても、厳かな雰囲気に圧倒されることもあります。
いてもおかしくないのかも……
さてさて、いかがでしたでしょう。
「神」「仏」への「どこが違うの?」などのモヤモヤは薄まりましたでしょうか。
少しでも皆さまのお役に立てていればうれしいです。
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